個人での「正義と悪」という価値観

正義と悪という価値観は、究極的に言って個人の価値観でしかない。ある事例を正義か悪かと判断するのは簡単だがそれは個人の判断であって、他人と同じ判断になるとは限らないという事だ。この意見に異論を唱える人はまずいないだろうと思う。
では、その正義と悪を判断する基準とはいったい何なのだろうか?この問いには様々な答えが存在するだろうが、私的には「生命の存続」という人間の本能そのものだと言って良い、と判断しています。

簡単に言ってしまえば、生きようと思う自分の生命を奪う様な行為は、それがどんな些細な事であれ「絶対的な悪」だと言えると言う事。
例えるなら、食パン一枚を盗むという行為は現代日本ではそれほど重い罪にはならないだろう。窃盗罪になるが起訴されるかは微妙な程の話だ。しかしこれが非常事態の中でならどうだろうか?その食パンが命を左右する様な状態でなら、パンを盗んだ者は、盗まれた者にとって、生きようとする限り絶対的な悪だと言える訳だ。
その反対に正義とは自分が生きる為に行われる最低限の事柄全てが「正義」だと言える訳だ。
それが自分以外にどんな迷惑な事や、命を奪う行為だとしても自分が生きる為に必要不可欠な行動だとするなら、それは「正義」の行動だと言える。
そんな無茶苦茶な!と思う人もいるかもしれないけど、そもそも考えて見て欲しい。人類がこの世に誕生した時、その価値観や判断能力などはそこらの野生動物と代わりのないレベルにあったのは間違いない話でしょ?そうした厳しいサバイバルな世界の中で正しい行動=生き残る為の行動だった事は容易に想像が付く話でしょ?
それともう一つ、自分のDNAを残す。つまり子供を守るという動機も個人的正義を決める大きな要員になる訳だけど、これも本能的な行動だと言える。
こうして、人類は様々な文明を築き上げて現代に至っている訳なんだけど、その根本はやはり一生命体であることに代わりはない訳で、そうそう変化してないし、変わろうとしても変われる物でもない。

しかし「こんなバラバラな価値基準が正しいとするなら、今の世の中無茶苦茶じゃないか!!」という意見もあると思う。正しくその通りでそんな物がのさばっていては、社会生活など行えない。
それに「私個人の価値基準から言っても、こんな正義を自分の価値基準にした覚えはない!」という人も多いと思う。
そこで登場するのが「社会正義」という存在だ。
ー続くー