社会正義とは

社会正義と書いたけど、正確に言うなら「人類が誕生してから現代に至るまでの課程に置いて育て上げた集団としての正義」と言う誠に面倒な物になるので「社会正義」と書いたけど、一般に言われる社会正義と少し違う物だという事を理解しておいて下さいな。
一般的な社会正義と呼ばれる物は、簡単に言ってしまえば「常識」と呼ばれる物や「倫理」という恐ろしく漠然とした物を基準にする集団的心理に置いて下される判断基準を指す訳なんだけど、私の言う「社会正義」は大筋でそれと同じ物なんだけど、それよりももう少し突っ込んだ所までを含むんですよ。


具体的に言うと前回個人基準による正義と悪について語った訳なんだけど、人間は他の野生動物にもあるように集団(群れ)を作る事で生き残る可能性を高めるという方法を選択して生きてきた。
群れの最小単位は「家族」で、この家族が複数集まる事で「群れ」となる訳なんだけど、群れという物はあたかもそれが一つの生命体のごとく動ける事が理想だよね。しかし先に書いたようなバラバラの価値観ではそんな事は望むべくもない。そこで、効率よく共同作業が出来るように言語を発明し、群れの価値観を統一するという方法を発明した訳だ。
では、この価値観の統一はどういう流れで作られるのか? 家族内では家族内で一番権力のある者が、そして群れの中ではその群れで一番権力のある者がとりあえず価値基準である正義と悪のラインを決める事になる訳なんだけど、全員がなるべく納得いく穏便なラインで決める事となる。
群れの構成人数が少ない以上一番の恐怖は不満から来る「離反や反乱」であって、群れの崩壊は生存確率の低下どころか、生命その物の危機に直結してしまうからだ。だから今でも地方の農村など群れの構成人数が少ない所では「和」が最も大切にされ、都会に比べると平和が保たれている訳だ。
しかし、群れを維持する事で、自分の身を守り、自分のDNAを受け継ぐ子供の生存確率を上げる訳なんだけど、群れの共通価値観つまり「社会正義」は、あくまで平均値でしかない以上「個人正義」に照らすと当てはまらない価値基準も出てくる。
つまり、本人が生きる上で必要としない事も、群れの維持の為にやらなくてはいけなくなる事となり、その結果自分の生命ですら危険に晒す可能性まで出てくる事もある訳だ。これでは個人基準で「悪」になってしまうと言う矛盾が発生してしまう訳なんだけど、生存確率を上げる事が群れの中に居続けるという事と=の関係にある以上、個人正義の定義にある生命を維持する最低限の行動に含まれると判断して、個人の正義感に反しても「群れに居続ける為に我慢する」という行動に繋がる訳だ。


まあ、これが社会ストレスの最初かな?


この社会正義という物は後天的な要素が強いから、生まれ育った時代・環境・民族・地域・国など様々な要因で変わってくる不安定な物だとも言える物で、後に書く「社会正義」の影響も受けやすい。
しかし、この社会正義という物を個人基準の正義だと思ってる人が多いんだな。あながち間違いだとも言えないんだけど・・・・・・・・・。
この個人基準と、社会基準がゴチャゴチャになっているのが、世の中の円滑な相互理解を阻害してしまっているのもまた事実だったりするんだ・・・これが・・・・。

ー続くー