国の正義その3

ここまで書いて勘の良い人は分かってきたと思うけど、つまり国の正義という物はその発生理由から考えても分かる様に、その国という社会が権力者の都合の良いようにか、国民の都合の良いようにかは別として、それなりに運営されていればその存在意義を十分に果たしていると言える物なんだな。
それこそが「国の正義」であり、うたい文句にどれだけ「公正」「平和な生活」「幸福」という耳障りの良い言葉が並んでいても、それが法律を作る時の基準になったと言うだけで、現実にそれが達成されていなくとも「国」が概ね順調に稼働していたら問題ない。つまり人類が理想とする様な誰にでも公平に作用する絶対的な正義である必要性は、実が欠片も無い存在だと言える訳だ。
逆に、その場その場で変わる様な社会正義をあまりにも簡単に反映する様な法律の方が信用出来な不完全な物になる可能性が高いとも言えるんだな。
権力者の都合の良い様にと言っても、建前としてその法律が国民全てに平等である事を前提としている以上、可能な限りそれらに沿った物にしなくてはならず、不満を漏らす者の意見ばかりを採り入れていれば、それまで不満を持っていなかった者が不満を持つ様にもなりかねない。これでは永遠にイタチごっこにもなりかねない。
何せ、今日は合法だった行動が、明日には違法になっている可能性すら有るからだ。日本はあまりにも憲法を改正しなさ過ぎると思うけど、そう簡単に変えて良い物でもない存在であるのはそう言う理由だ。
繰り返しになるけど、社会正義は性格・人数・メンバー・機嫌・時代・流行・年齢・地域・思想・心情・等で幾らでもその姿を変える極めて不完全な存在であり、だからこそ様々な価値観や、性格の人ともコミュニケーションを取る事が出来る便利な存在だと言える。
そんなコロコロ姿を変える基準を逐次反映させるのはおおよそ不可能だし、そんな事をしていたのでは落ち着いて生活も出来ない。
特に、多くの企業は現行の法律を基準として様々な企画を進行しており、法律が不安定になってしまっては何も仕事が出来なくなってしまう事も考えられる。
経済力が拠り所の我が国がそんな状態になったらどうなるか・・・言うまでもないでしょ?

つまり社会正義という物は、もの凄く漠然とした存在だしいい加減な物である訳だけど、基本的に人が理想とする姿を追い求めようとする思いが強いのだから、国の正義である法律とそぐわない点が出てくるのも至極当然の流れだと言える。
しかし、そう言って諦めてしまわなければいけない物でもない。
現代の民主主義が理想とされる民主主義から程遠い存在で、まだまだ封建制度も色濃く残っている。少数の権力者が良い様に国をもてあそんでいる場面も珍しい物ではない。
しかし、これは権力者が悪いだけでなく、国の政は政治家がちゃんと行なってくれる物で、自分達は関係ないと勝手に思い込んでる国民にも責任がある。少なくとも民主主義では、国を構成する主役は国民であり、政治家はその代表としての「道具」に過ぎない訳だから、常にその道具が正常に、命令通り働いているか監視する必要がある訳だ。そしてその道具が不良品なら交換する事も出来る様になっている。
それがリコール運動なり、選挙な訳だ。
最初から誰がやっても政治は変わらないと思い込んで選挙を放棄するなど、封建社会を自ら認める様な物で、民主主義の精神を欠片も理解してい愚考としか良いようがない。

話が少々ずれてしまったが、我々が採用している民主主義は、実態はともかく「個人正義を極力認め、理想的な社会正義を目標とする事を前提にしている」過去の歴史的に見ても珍しい政治形態だ。
だから政治家が少しでも私利私欲な行動を取る事は非難の対象となるし、まるで法律も理想的な社会正義実現の為に存在してるかの様な条文も存在する。
しかし先にも書いた様に理想的な社会正義と言っても、そんな物は個人個人で理想とする姿がまるで違う物だと言って良いし、将来的にぼ〜っと待っていたら実現する物でもない訳だから、どうしても自分が思う個人正義や、社会正義を憲法に反映させたいと考えるなら「社会運動」という物が重要な働きをする訳だ。
個人で幾ら望んでも、そのままではその個人の理想的な社会など他人に正確に理解して貰う事すら困難な訳だけど、社会運動をする事で話をしたり、議論する事でその集団内に共通認識(その集団の中で独自の社会正義)を作り上げる事で具体的な物とする事が出来る。
具体的な物にすれば、より多くの賛同者を集めやすく、憲法のどの部分を具体的にどう変えるか、もしくは作るかを提示しやすくなる訳だ。
だからどんな下らない不満が出発点だとしても、周りと議論する事は素晴らしい事だとも言える。(あまりに我侭な物や、突飛な考えは当然周囲にも受け入れられない訳だから、個人正義と社会正義のギャップの確認にもなるしね)

この運動が上手くいけばその社会正義は法律に反映される事になる。
これが民主主義の一番の特徴と言っても良いぐらいで、政治に参加しない自由を享受する為に存在している物じゃないと言う事さ。
繰り返しになるけど、どれだけ自国民を苦しめようと、他国民を苦しめようと、法律上問題が無ければそれは国の正義として「正しい行為」な訳だ。逆に、どれ程人の為になろうと、それが国の運営を阻害する物だとしたらそれは悪と認識されてしまうという事さ。
まあ、その代表が「戦争」だな。
自国民がどれだけ死のうと、他国民をどれだけ殺そうと、戦争に勝てば自国民の犠牲者は「貴い犠牲」となり「他国民の死者は」自業自得として存在を忘れられる訳だ。
冷たい言い方だがこれが国の正義な訳だし、勿論負ければ逆の立場になる訳だ。国の正義という物はそう言う類の物だし、これから先も基本的に変わらないし変わるべきでもない存在だという事。
まあ、いきなり戦争を例えに書いたから、国の正義が冷酷な物でますます我々の生活からかけ離れた価値観に感じてしまったかもしれないが、国という物が無くても人間死にはしないが生きるのが大変な作業となる事は間違いない事実だし、安定した生活を保障するには欠かせない存在である事も事実だ。

以上が私の考える正義の種類と、その内容な訳だ。
個人正義は生き残る為の道具。
社会正義は自分以外の人間とコミュニケーションを取る為の道具。
国の正義は国を発展させるか、安定させる為の道具。
これら3種類はそれぞれに言い面も悪い面も有る訳だけど、これ等をいかにして使いこなして、上手に生きるか?これが処世術、上手な生き方という物なのかもしれないね。
だとしたら、ただ漠然と道具を使うよりも、その道具の本質を理解し、使いこなす努力をした方が良いのはどんな道具でも変わらない話だ。
難しい事の様にも感じると思うけど、今現在まで生きて来れたと言う事は、これらの道具を使いこなす術は基本的に誰でも持ってるという事だし、後はそれをちゃんと認識してのばせばいいだけの話だ。
何かの事例を取り上げてみて、私はこの事例をどの道具(正義)を使って判断しているのだろう?
そして、それはこの場合に適している物なのか?使っていない別の道具を使うと、より上手く判断、行動出来るのでは?と言う様な事をたま〜に考えてみるのが一番良いのかもしれない。


皆さんも頑張ってみて下さい。


次回に書く「白テロ」が許され「テロ」が許されないとされる文章を理解して貰うには最低限このことを理解して貰わないといけない訳で、この3種の価値観を混同して考えている限り、白テロとテロの違いは一生理解出来ないと思う。
それでは意味がないですからね。
私もつい最近までこれらの価値観を混同して考えていた面があり、個人的にずいぶん矛盾を抱え込んでいたのですが、この考え方を見いだした事でずいぶんとシンプルに考えられる様になりました。そして新たな問題点も見えてきました。
まあ、この考え方が絶対的に正しい物だとも思いませんし、もっと別の捉え方もあるでしょうが、取りあえず大きくずれた考え方とも思いませんし、皆さんもこう言う考え方もあるかな?と言う視点で世の中を見渡してみて下さい。
少し違った物が見えてくるかもしれません。
では最後まで長々とした文章に付き合って頂きありがとうございました。何時になるか分かりませんが白テロとテロの違いについての連載も頑張って読んで下さい。