国の正義その1

しばらくが、ずいぶん長いお休みにってしまいましたが、ようやく再開です。
昔から日記というか、毎日定期的に何かをすると言う事が苦手だった私が、これでもよく続いた方だったんだけど、ちょっとガス抜きというか、他事で頭が回らない日々だったもんで・・・ご迷惑をおかけしました。

では国の正義の続きを再開します。

個人正義、社会正義(と言うより価値観と言った方が良いのかもしれないけど、まあ同じ物だから)と解説してきたんだけど、私のへたくそな文章で分かってもらえたかかなり不安です。
まあ、簡単に書いてしまうと個人正義は人間の非常に本能的な部分での価値観、判断基準は「生き残る」という物。しかし本当に命を左右しない場面での判断でも出てくる物で、簡単に言えば自分のやりたい事を最優先にした我侭な判断にも用いられる。これは不変の価値観だけど、あくまでその人個人の価値基準であり他人と共有出来る物ではない。

しかしそれでは群の生活など出来ないので、その課程で発生したのが社会正義。
(誤解が無いように書きますが、私がここで言ってる社会正義という物は世の中で言われている社会正義とは違う物なので注意して下さい)
この社会正義は自分の価値観と他人の価値観を擦り寄せて妥協点を作り出し、そこを判断基準に設定する事で(つまりこれが常識と呼ばれるライン)初めて意思の疎通が出来る物で、これ無しに他人と話をする事など出来ない重要な存在でもある。
自分が接触する相手、グループによって形を変える非常に不安定で明確な形を持たない存在何だけど、だからこそ様々な人と意思の疎通が出来るとも言える。「常識」「人として当たり前の行動」「家族愛」「正しいあり方」等、明確な規範という物が存在しないんだけど、何となく有るように感じて使ってる物の全ての正体がこれ。むしろ無意識かで明確な存在にしようとしているのかもしれない、何故ならこれに明確な形が出来てしまうと、そこからは見だした瞬間にその人は「社会生活不適格者」という事になり、その事実は多くの人に耐えられる物じゃ無いからね。
自分は変人という人は居ても、最低限のモラルは守っていると思って居るからこそ社会の構成員で居られる訳だ。
まあ、群の構成員として群の仲間と意思の疎通を図る為にこの社会正義という物は不可欠なんだけど、当然その社会正義は個人正義と全ての面が合致する訳もなく、個人正義を押さえ込む必要性が生まれる。
これが「ストレス」だ。
「世間で堅い真面目な人」と言われている程、裏で変な事をしてたりするのもこの辺に原因があるのかもしれない。

しかしこの社会正義という物は不定型な物だけに簡単に派閥を生み出す存在で「人間3人居れば派閥が出来る」と言うあれだね。まあ、不定型な形だからこれはしょうがない現象なんだけど、これでは群を大きくする所か内紛が絶えない事になってしまう。
そもそも生き残りやすいという方法として人間が選択した群という手段なのにこれでは咄嗟の判断など出来るはずもなく、返って危険な状態にもなりかねない。そこで自然と群の判断基準としての存在、つまり「リーダー」が誕生することとなる。
このリーダーが下す判断を、多少納得が行かなくても取りあえず「正しい」判断とする事で群全体の行動をスムーズにして効率よく、素早く行動できるようにした訳だ。
そして、より生き残りやすく、外敵にも強い存在となる為に国という物を形成していく訳なんだけど、リーダーのその時の気分で変わるようなあやふやな判断では、多くの国民の納得の行く統治など出来るはずもない。それ以外にも大集団になる事で別の問題も発生してくる。
人間は二人以上の集団になると有形無形の実に様々な問題を発生させるんだな。
小さな小集団だった頃はリーダーと、その問題の当事者も気心の知れた間だった訳で、解決も容易だったんだけどそれが大集団になってはとても対処出来ない。
そこでサブリーダー的存在、もしくはプチリーダーがその対処に当たる事になるんだけど、このリーダー達がメインリーダーと同じ考えな訳もなく、このような状態を放置する事は国の崩壊にも繋がりかねない。


そこで文字の発明と同時に誕生したのが「法律」つまり明確な形での「国の正義」と言う訳だ。


ーその2に続くー